日本のアホウドリは伊豆諸島の最南端で東京から五百八十キロ、世界でただ一つといわれているその集団繁殖地である鳥島という無人島に生息しているが、50年ぐらい前には絶滅したのではないかと言われた時期があった。
それは明治半ば1887年に鳥島に住むアホウドリの羽毛に目を付けた4〜50人の捕獲者が本格的に移住し集落を造りアホウドリを乱獲したからである。
当時西洋での羽布団などに使う羽が高い値段で取り引きされたために,毎年20万羽をも捕獲したようであるが1902年に鳥島の火山が大爆発して島民150人全員が死亡するまでの15年間に約5百万羽が殺されたようである。
24〜5年前に現東邦大学動物生態学研究室の長谷川博助教授が絶滅に近いアホウドリの観察と保護に乗り出した。
鳥島には当時アホウドリは170羽ぐらいしか生息していなかったが長谷川教授などの尽力で今は1,100羽に増えている。アホウドリは北の海で夏を過ごし卵を産み雛を育てるために日本に帰ってくる。10月上旬に鳥島にあるコロニー(集団繁殖地)に雄が帰ってきて,前年と同じ場所に縄張りを設けて雌をまつがその数日後には雌が帰って来て,5ヶ月ぶりにつがいの二羽が再会をする。
アホウドリは生涯一夫一婦制と言われているが、産まれてくる一個の卵を二羽は協力しながら65日間も交代で卵を抱き,その後雛が育つ5月始め迄子育てをしなければならない。この様なお互いの信頼と協力で過ごすことが多い事からか、その求愛行動は2〜3年と非常に時間をかけるようである。明治の半ば迄は鳥島には数十万羽のアホウドリが生息していたがその様子はまるで南の島に雪が降ったように見え、鳥たちが一斉に飛び立つと、まるで蚊柱ならぬ鳥柱が立ったように見えたと言われている。
江戸時代に菅茶山とゆう人が出した本に「伊豆の海中に鳥柱というものあり、晴天に白き鳥数千羽盤舞して高くあがる……大なる白き柱を海中に立てたる如し」又あの北原白秋が作った童謡に「阿呆の 阿呆鳥/逃げたてむだよ/ついに島鳥/もがき鳥 すぐにつかまろ/荒海 小鳥/何処へ 逃げらりょ/かくれらりょ」とゆうとてもつらい歌がある。
アホウドリの平均寿命は24〜5年であるが長寿のものは50歳ぐらいのがいるのではとも言われている。
この鳥は羽を広げると2.5mぐらいありこの大きな羽を利用して海の上をほとんど羽ばたかずに、その滑空比率は人間が作った最高に性能の良いグライダーにほぼ匹敵する40対1で、すなわち1m落下する間に40mも前に進むことが出来るのである。この鳥はかわいらしさ・美しさ・優雅さ・賢さが同居しており「森の王様イヌワシ」そして「海の女王アホウドリ」と言われるぐらい存在感のある鳥である、現在の日本名があまり良くないのであるがかって土佐では籐九郎・房総ではダイナンカモメ・山口県の長門地方では沖の太夫・福岡では来(らい)の鳥・江戸後期には灘の鶴・沖の鶴(日本酒にこんな名前があったと思うが)などと呼ばれていたようである。始めの名付け親が悪かったのだろうが、花でも布施明の歌「シクラメンのかほり」で知られている「シクラメン」の日本名は「豚の饅頭」と言っており、それではあまりにもかわいそうとの事で牧野富太郎という博士が「篝火(かがりび)花」と銘々したがあまり知られていない。
現在アホウドリが国の天然記念物になっているだけでなく、アホウドリが住む鳥島全体も天然記念物に指定されている。アホウドリは5月に北の海へと飛び立つが、その距離は鳥島から六千キロも離れたアラスカ湾とかベーリング海峡迄及ぶようである。
英名であるアルバトロスはゴルフ用語としても知られているが、1920年代にゴルフがアメリカで盛んになってつけられた様で、アホウドリの長大な飛揚力を良く表す言い方である。又アホウドリと人間の出会いを描いた文学作品も結構多く、井上鱒二の「ジョン万次郎漂流記」・吉村昭の「漂流」・新田次郎の「孤島」等が著名な作品がある。
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